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落下地点

松村巧著「日本天文名所旧跡案内」によると落下地点として4か所載っています。

・小城隕石1号 小城町散分地区(火葬場北側) ⇒ 散分地区は不明、天山斎場とは違うようです。
・小城隕石2号 小城町平原(鷺原川東岸付近) ⇒ 小城中学校の近くのようです。
・小城隕石   小城町(北浦山) ⇒ 祇園川・須賀神社の北側の山周辺のようです。
・小城隕石   小城町(南昌寺東方) ⇒ 南昌寺が見当たりません。

上記以外に原典に近い記録として、明治35年の東京地学協会の「地学雑誌」に榎本武揚が投稿した「流星刀記事」中に小城鍋島藩の日記を写した記載があります。

・掛目一貫百五十目黒石一つ 鷺原川副左林屋敷坪中へ落入り候深凡五尺
・同一貫六百目同一つ 藏分之内植田之中へ落入候深凡六尺余
・同五百四十目一つ 北浦山之内
・同      同一つ 町裏宮崎市佐給地内之

現在の地図で地名を確認すると一致する地名もありますが詳細な場所は特定できていません。大雑把な予想ですが、小城高等学校を中心にの半径1km円内に落下した様です。

鍋島家に保存されていた小城隕石の写真

小城隕石(Ogi Meteorite)
小城隕石は1741年6月8日午前11時(和暦:寛保元年4月25日巳の中刻)ぐらいに、現在の地名で佐賀県小城市小城町に落下しました。およそ5.6kg、4.6kg、2kg、2kgの4個でした。1882年(明治15年)にDivers氏(東京大学教師)によって、大きい2個の外観と総合的な化学組成についての簡単な報告がされています。ほかの2個については何らかの理由により紛失しています。最も大きい石は長い間、鍋島家が保有していましたが、残念ながら第二次世界大戦で米国の焼夷弾によって被災して行方不明です。2番目に大きいものが唯一標本としてイギリスの大英自然史博物館にあります。その後のX線検査によりH6コンドライトと分類されています。
※1981年版国立科学博物館の研究報告書より引用
その後の小城隕石 2013/01/31更新

落下から約270年も経っている隕石が鍋島家によって保管されていたため、現代まで残っていたのは幸いですが、何時の日か佐賀から東京へ運ばれていて、一番大きな隕石は第二次世界大戦中に東京都内の鍋島邸で被災して現在行方不明です。島正子先生著「隕石・宇宙からの贈り物」によれば鍋島家の東京駿河台の屋敷に秘蔵されていたと記されています。
 1930年に出版された神田清著「流星と隕石」103ページに鍋島家に保管されていた七夕石の写真が載っています。この写真は東京博物館員の厚意によって複写されたものとあります。

2番目に大きかった隕石が英国に渡った経緯ですが、榎本武揚(元幕臣で後に明治政府高官)の「流星刀記事」によると、最後の小城藩主であった貴族院議員子爵・鍋島直虎氏が英国外交官ハリー・パークスの要請により大英自然史博物館に寄贈したとあります。ハリー・パークスは当時アジア協会の会長でもあり、1882年、最初のDivers報告がなされたのもアジア協会の報告書だったので何らかの関連があったのかもしれません。大英自然史博物館に渡った隕石は今も保存されているようです。ただ長年の間に研究資料として分割され各国の研究者や博物館に渡っていることがわかっています。

残り2個(各2kg)の隕石は落下当時の鍋島家日記以外その後の記録がまだ見つかりません。Divers報告がなされた時期にはすでに行方不明だったと考えられます。

小城隕石の最近の研究結果は1992年、国立科学博物館(島正子・村山定男)両先生の「本邦の落下、回収された隕石研究の推移」に大変詳しく記述されています。⇒詳しくはこちら
上記、論文に国立科学博物館が所蔵する小城隕石は2号隕石の分割された分で 55.2g、2.08g、0.07g、粉末(0.16g、0.08g)とされています。この研究に使われた小城隕石資料は大英自然史博物館から他の隕石資料との交換で手に入れられたものです。
大英自然史博物館に保存されている現在の2号隕石の重さは未調査です。
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佐賀天文録